雙日が歴史マンガ「総合商社 雙日 未來を創造した先駆者たち」の第6巻「新路」(最終巻)を発行しました。
2024.3.26.
明治?大正期のわが國の産業革命を牽引した雙日の源流3社(鈴木商店、巖井商店、日本綿花)の功績、現在まで生き続ける遺伝子とは何なのか。その本質を探る物語が最終章を迎え、第6巻「新路」として発行されましたのでご紹介します。
第一次世界大戦終結に伴う反動不況により事業に陰りが見えて來た鈴木商店は、海軍の八八艦隊計畫に復活の望みをかけていましたが大正11(1922)年にワシントン海軍軍縮條約が締結され、大きな打撃を受けました。
さらに翌年の関東大震災が追い打ちをかけ、鈴木商店の経営は悪化の一途を辿り、ついには主力行の臺灣銀行が金子直吉の辭任を要求する事態に至ります。
そんな最中の大正15(1926)年、ロンドン支店から高畑誠一が帰國しますが時既に遅く、震災手形の早期処理を巡る國會審議の過程で、鈴木商店の経営不振と臺灣銀行との関係が露呈します。
昭和2(1927)年3月、鈴木商店は臺灣銀行より融資打ち切りの通告を受け、同年4月、鈴木商店は破綻しました。
巖井商店(後?巖井産業)も昭和金融恐慌や世界大恐慌により経営が悪化しましたが、數々の事業展開によりこれを乗り越え、日本綿花もまた大きな損失を被り減資を斷行しましたが、関係各社から支援の手が差し伸べられ経営再建の道を歩み出しました。(右のマンガは「第3章 関東大震災、鈴木商店の経営不振と破綻」の場面です)
鈴木商店破綻の翌年(昭和3年)、高畑誠一、永井幸太郎ら舊鈴木商店の若手中心の39名により日商(現?雙日)が設立されました。一方、金子直吉は太陽曹達(現?太陽鉱工)にて再起を図ることになりました。
日本綿花は非繊維部門の比率を高めて戦後に総合商社化を果たし、日綿實業(後?ニチメン)に社名を変更。昭和43(1968)年に日商と巖井産業が合併し日商巖井に、そして平成15(2003)年に日商巖井とニチメンが経営統合し、翌平成16(2004)年に雙日が誕生しました。
鈴木商店、巖井商店、日本綿花のDNA、有形無形の資産は現在の雙日に連綿と受け継がれています。(左のマンガは「第6章 日商、それぞれの道 雙日の誕生」の場面です)
歴史マンガ第6巻「新路」(最終巻)を含む全6巻については、下記の関連リンクよりご覧下さい。