鈴木商店こぼれ話シリーズ(51)「 江戸後期、大阪長堀に二つの"辰巳屋"が存在」をご紹介します。
2024.4.28.
カネ辰鈴木商店の宗家?辰巳屋松原商店は、江戸後期?寛政年間(1789~1801年)の頃に創業した「辰巳屋嘉兵衛」に由來する。嘉兵衛は、播州姫路出身で姫路特産の"白なめし革細工を扱う「辰巳屋」を大阪心斎橋に開業、業容が広がると南本店のほか道頓堀にも支店を設けた。
同じ姫路出身で嘉兵衛のもとより暖簾分けで獨立した松原藤助は、文政7(1824)年大阪大寶寺町で「辰巳屋松原商店」を創業。藤助の息子?恒七の代に事業が大きく拡大し、砂糖商として専用船を有するほどに発展すると、長堀橋詰(安堂寺橋通、現?南船場)に移転。(左の寫真は、辰巳屋松原商店二代目?松原恒七)
この間、辰巳屋嘉兵衛は息子の代に家業は傾き沒落。松原商店が宗家?辰巳屋を引き継ぐことになり、やがて辰巳屋の暖簾は鈴木巖治郎に引き継がれ日本一の総合商社?鈴木商店の誕生に繋がることになる。
一方、大阪長堀橋にゆかりの豪商?辰巳屋久左衛門の店があった。江戸中期?寶永年間(1704~1711年)頃、堀江吉野屋町に初代久左衛門が開いた炭問屋「辰巳屋」は、三代目久左衛門の時代(正徳年間(1711~1716年))に大きく財を成し、両替商としても鴻池、泉屋(住友)に並ぶ豪商に數えられ、大名貸しや御用金上納者として幕府の財政に寄與するほどに繁栄した。"大阪市史"には、辰巳屋の家産200萬両(現在の価値で2,000億円)、手代460人を誇る大店だったことが記されている。(右の畫像は、文政5年の大阪長者番付)
三代目久左衛門の時代に家督爭いから贈収賄事件を起こし幕府を巻き込む一大疑獄事件(元文5(1740)年)に発展する出來事があったが、これを乗り越えた辰巳屋は明治に入っても事業を継続し永く栄えた。(辰巳屋騒動については、當時出版された実録小説「銀の笄(かんざし)」や、近年出版された小説「辰巳屋疑獄」(松井今朝子著2003年)や「悪玉伝」(淺井まかて著2018年)にも取り上げられた。)
砂糖商?辰巳屋松原商店と両替商?辰巳屋久左衛門は、文化?文政から明治にかけて商都大阪の中心の一つ、長堀を舞臺に同時期に並立していたことは単なる偶然であろうか。